京都の古寺を巡る −東寺−
2006.11.9
SYU−さん
龍谷大学エクステンションセンター主催の京都の古寺を巡る(東寺)に参加した。
東寺は私の生家の近くで幼い時から親しみのある寺であるが五重塔の内部は
見た事が無いので早速申し込んだところ定員50名以上の申し込みが既に有り、
キャンセル待ちを経過してようやく参加できた。
当日、近鉄東寺駅13時集合でそれに合せていったところ、おおよそ男女半々で
年齢も50歳から70歳くらいの人が50名程度の人が参加。
講師は4名(松浪・岡村・湯浅・斉藤)、駅でパンフレットなど受け取る。
東寺の平面図 慶賀門
メモ:東寺
・東寺真言宗の総本山。明治以降、正式名を教王護国寺とする。
・平安京遷都(794年)の直後、羅城門の左に創建された寺院。
・弘仁14年(823)嵯峨天皇から空海に勅賜されて以降、真言密教の根本霊場となる
・空海没後、平安時代には傑出した寺僧が出なく寺運が衰退。仁和寺・醍醐寺の建立により、
法流が広沢・小野の二派に分かれてこれらが発展した。
・後白河法皇や源頼朝の援助を受けた文覚の活躍により諸堂が復興された。
・鎌倉時代初期、空海の木像を造り御影堂を建立したため、東寺が弘法大師信仰の中心的役割を
担うことと なり、多くの人だちから荘園の寄進を受け、経済的にも独立した。
・室町時代以降には、弘法大師信仰は庶民化し、その支持を受けた。
・平安京の南に位置したため、戦乱に際してはしばしば拠点となり、幾度か焼失した。
@近鉄東寺駅から徒歩で50人余りぞろぞろ歩いて大宮通り面している東寺・慶賀門に到着。
その場所で、門に付随している懸魚(げぎょ)*や蟇股(かえるまた)**の時代の変遷
の説明を受け、慶賀門は鎌倉時代前期のものと分かる。
*げぎょ
【懸魚】
屋根の破風に取りつけて、棟木(むなぎ)や桁(けた)の木口を隠す装飾。破風の拝み
(=合掌の合わせ目)の部分にあるものを本(おも)懸魚、左右の下部のものを降(くだり)懸魚または
桁隠し懸魚という。また、その形によって猪目(いのめ)懸魚・蕪(かぶら)懸魚・梅鉢懸魚などがある。
**かえるまた
【蟇股】 〔蛙がまたを広げたような形から〕
社寺建築などで、頭貫(かしらぬき)または梁(はり)の上、桁との間に置かれる山形の部材。
本来は上部構造の重みを支えるもの。のちには単に装飾として、さまざまに彫刻して破風などに
つけられた。厚い板でできた板蟇股と中を透かした本蟇股とがある。
東寺には次のような門が有る。
・蓮華門〈国宝〉
・慶賀門・東大門(不開門)北大門〈以上、重文〉、とともに鎌倉前期の建立。
・四門とも、ハ脚門、特異な懸魚が特徴。
・この他の門
潅頂院北門・潅頂院東門〈鎌倉前期・重文〉、北総門〈鎌倉後期・重文〉、
南大門〈桃山時代・重文〉は三十三間堂西門を明治28年に移築したもの。
A次に講堂に向かう。東寺はもともと官寺として建立され、空海が赴任(823年)してから真言宗
(密教)の宇宙空間を講堂に仕上げていった。
メモ:講堂〈重文>
・建物は天長2年(825)創建、承和6年(839)開眼供養。文明18年(1486)に焼失。直ちに再建したが
文禄5年(1596)に地震で倒壊し、慶長3年(1598)に北政所が復元した。
・内部には空海により、中央に五智如来〈重文〉、東西には五菩薩と五大明王く国宝〉とが安置された。
密教曼陀羅を立体的に示す仏像群。『金剛頂経』『仁王経』などによる。
講堂 講堂内部
B次に金堂へ向かう。金堂の外観は下層・裳階・上層の屋根が有り相当大きいが内部は一階のみ
である。金堂内部は薬師如来、日光菩薩、月光菩薩が目立つが他の12神将は小さく感じた。
金堂
メモ:金堂〈国宝>
・
桁行5間×梁行3間の一重裳階付入母屋造本瓦葺。
・創建は延暦15年(796)とするが、永仁3年(1295)・文明18年(1486)に焼失。
・
慶長8年(1603)、豊臣秀頼の助成により完成。翌年本尊薬師如来〈重文〉が安置された。
・裳階屋根中央部を切り上げ、下層は三手先の挿肘木や中備に平三斗を重ねる大仏様、
上層は尾垂木付き四手先組物の和様、また禅宗様の拳鼻を取り入れる折衷様。桃山時代の大仏堂の代表作。
C次に五重塔へ向かう。明日から一般公開が有る模様。かねてから期待していた内部がいよいよ
見られることとなった。心柱を大日如来に見立て、その周囲に阿弥陀如来他が安置され、壁には
弘法大師などが描かれていた。1757年本居宣長が5層から眺めたという景色も期待したが内部は
初層のみの拝観であった。
五重塔 宝珠・九輪・5層など
メモ:五重塔〈国宝〉
・高さ55m、日本最高の木塔。
・創建は元慶年間(880年代)だが落雷・焼失を繰り返し、現在のものは寛永21年(1644)に竣工したもの。
・木鼻などの装飾的部材を用いず、実肘木にも絵様繰形を施さないなど、近世建築としては異例であり、
復古的姿勢がうかがえる。
・内部は心柱を大日如来に見立て、四方に金剛界四仏を配置し、柱には国界曼陀羅やハ大龍王を、
壁面には真言ハ祖像を彩色することで、密教的世界を表現する。
D次に宝蔵へ向かう途中、東大門(不開門)の説明を受けた。北朝側の足利尊氏が本陣を東寺に構えて
いたが、南朝側の新田義貞他と交戦し苦戦をしいられ足利軍の武者達が、ぞくぞくと東大門から境内に
なだれこんできた。最後のひとりが境内に足を踏み入れたとき東大門は閉ざされた。その戸をめがけて、
なんすじもの矢が打ち込まれた。それ以来、東大門は閉じられたままでこの門を不開門(あけずのもん)という。
宝蔵
メモ:宝蔵〈重文〉
・校倉造。平安後期の建立。東寺百合文書や後七日御修法道具を保管していた。
E次に食堂(じきどう)に向かう。昭和5年の終弘法(12月21日)の夜に食堂内で火災発生し千手観音
菩薩像などが焼失した。現在の食堂は昭和9年に完成。
食堂
メモ:食堂
・聖宝が東寺長者であったときに千手観音立像〈重文〉・四天王が安置された。
・堂前の夜叉堂には、創建期の南門(後に中門)に安置された夜叉神立像を安置する。
F次に大師堂に向かう。檜皮で葺かれた屋根はやわらかな曲線をもって、全体に低い入母屋造り
の建物をおおわれている。空海はここに10年あまり住む。
空海が高野山奥の院に入定してからは、空海が念持仏としていた不動明王がこの住まいをまもっていた。
大師堂(西院御影堂)
メモ:大師堂(西院御影堂)〈国宝〉
・後堂・前堂・中門からなる。堂内には空海坐像と不動明王坐像が安置される。
・境内の西北にある西院の一部で、もと僧坊があったため空海起居の場と伝承され、住宅風の建物
(寝殿造)として総桧皮葺で創建されている。
・後堂(南側)は5間四面の北に鎚破風の孫庇を付け、間口5間×奥行3間の前堂を北側に接続する。
前堂の西に細長い中門を取り付ける。
・東寺における弘法大師信仰の中心で、今も毎月21日の「弘法さん」は参詣者で賑わう。
G次に宝物館に向かう。今年は大同元年(806年)に弘法大師が帰朝してから1200年目の記念の年との
こと。平安京の羅城門上に安置されていた兜跋毘沙門天立像など展示されていた。
2006年秋期特別公開は9月20日から11月25日まで。
メモ:宝物館
・兜跋毘沙門天立像〈国宝〉…平安京の羅城門上に安置されていたもの。唐で制作。
・真言七祖像〈国宝〉…密教伝来と継承に深く関わった七人の祖師の画像。五祖師は空海が中国で師の
恵果から直接授かり、日本へ持ち帰ったもの。
H次に潅頂院(真言堂)に向かう。潅頂院(かんじょういん)とは次世代の阿闍梨を生むための堂舎である。
メモ:潅頂院(真言堂)く重文>
・承和10年(843)東寺での伝法潅頂が許可された。明治以降、後七日御修法が行われる。
I時間は16時30分を過ぎ、境内の一般拝観時間も過ぎており、南大門は閉まっていた。
この南大門は 七条通りの三十三間堂から移築したものとは知らなかった。南大門から出られないので
北大門前を経由、慶賀門横の出入り口から一旦外へ出て平安時代から道幅が変わらないという櫛笥小路
(道幅約10mは有る)を経由して北総門で解散した。
今回、約4時間説明を受けたが、だまだ時間が足らず、空海が東寺を最後にでた蓮華門や不開門の
表側とか次回改めて訪問しゆっくり眺めたいと思った